遠山利景 (徳川家康側近、明知遠山氏初代旗本)
武田信玄の上洛のプレッシャーに悩む織田信長をして、街道一の猛将と言わしめた父遠山景行が上村の合戦(元亀3年1572年)に敗れ自害し、明知遠山氏存亡の危機の中、飯高山萬昌寺に出家していたが、若年の明知遠山家当主遠山一行を補佐するために還俗、織田信長、徳川家康に属して各地を転戦。
天正2年(1574年)明知城を武田勝頼に落とされたが、翌年長篠で織田・徳川連合軍が勝頼を破った機に乗じて明知城を奪還。秀吉の部下であった兼山城主森長可に明知城を奪取される。秀吉と家康の抗争、小牧・長久手の戦い(天正12年1584年)に乗じて遠山利景は明知城を奪還するも和議により再び森氏に返還。
遠山利景は、関ケ原の合戦(慶長5年、1600年)において家康の命に沿い、明知城を奪還、岩村城を攻略。結果として、慶長8年1603年、徳川家康が征夷大将軍になったことに伴い利景も従五位の高位を叙勲。美濃恵那郡32村5400石、土岐郡6村1138石拝領の朱印状受領。

遠山利景の正室は、尾張国三河足助城主鈴木重直と松平於久の娘である。この松平於久は、元々松平家当主で弟の松平清康(徳川家康の祖父)の養女となり重直に嫁ぐが、重直が松平氏から離反したことで、於久は岡崎城に戻され。一方、清康の跡目を継いだ松平広忠(家康の父)に、刈谷城主水野忠政の娘於大(伝通院)の輿入れし、於大は岡崎城で竹千代(後の徳川家康、天文 11 年、1542 年生誕)を産む 。於大の兄、水野信元が駿河の今川義元に反し、尾張の織田信秀・信長親子に従うと、今川氏と主従関係の広忠は於大を離縁した。これにより、3歳の竹千代(後の徳川家康)は生母於大と離別し、6歳で今川氏の人質になるまで岡崎城にて、遠山利景の義母(嫁母)である於久が養母として養育し、家康と遠山利景は遠縁でありながら兄弟のような環境にあった。
徳川家康は慶長10年(1605年)、将軍職を退き駿府城へ退隠したものの、主要な譜代大名、旗本を側近におき江戸幕府を運営した。遠山利景は、その中でも主要幹部の一人として、家康にも寵愛され、利景は最終的には明知城を廃城し、ご陣屋・代官による管理とし、旗本として駿府城、明知城、江戸で勤務するようになった。
今回の令和6年(2024年)の発掘調査により、明知城、本丸跡にて、多数の高級美濃土器が発掘され、駿府城と往復したと思われる遠山利景の当時の豪奢な明知城での活動が偲ばれる。