●慶長8年(1603年)2月、徳川家康は伏見城で征夷大将軍に任命され、江戸幕府が始まった。3月25日、家康は将軍宣下の拝賀の式を行い、遠山利景は道中の行列を奉行する重責を果たした。この時、大名旗本への叙爵(じょしゃく)が行われ、利景は従五位下民部少輔に叙爵、御奏者役を任命された。
●慶長8年(1603年)、利景は朱印状を以って美濃国恵那郡 32 ケ村 5,400石余、土岐郡6ケ村 1,138石余の采邑(さいゆう・領地)を拝領。
●慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り駿府城に退隠、有能な譜代大名旗本などを側近におき大御所政治を行った。利景も駿府城で家康に仕え、慶長15年及び17年に御前で猿楽を舞ったことが「徳川実記」に記載(大河ドラマ『どうする家康』の中では、海老すくい踊りとしてに家康と側近の交流状況として表現されていた。)。大御所政治の側近としては、本田正純、安藤直次、茶屋史郎次郎、天海僧正、林羅山など。明智光秀と明知遠山一族との歴史もこのあたりで粉飾、封印が行われた模様。
●慶長19年(1614 年)5月20日、利景は明知遠山氏の存亡を賭け、戦場に明け暮れた波乱の生涯を明知城で終えた。享年 74 歳。
●元和2年(1616 年)4月17日、家康は駿府城において 75 歳で死去した。
●旗本明知遠山氏2代遠山方景の妹(於久の孫)は、旗本中山勘解由照守に嫁いだ。照守は2代将軍になった徳川秀忠の使番となり、後に3代将軍となる徳川家光の馬術指南も務めた。照守の死後、方景の妹は大奥に奉公し将軍秀忠の御内使として大奥での地位を得た。なお、2代方景から分家した景重の7代末裔に、北町奉行を務めた遠山金四郎景元がいる。(「遠山の金さん」の主人公として知られている。)
●3代長景の正室は、徳川家康側室の阿茶局(雲光院)の姪(長寿院)である。阿茶局は大奥を統率し、大阪冬の陣で家康の代わりに徳川側として和議の交渉を行った。寛永11年(1634 年)7月、3代将軍となった徳川家光の上洛に際し、長景も京都に供奉した。
●4代伊次の後室の凉光院は、初代紀州藩主徳川頼宣の側室となった円住院の姪である。凉光院は、本能寺の変の後、森長可に殺された遠山一行の娘阿子姫を憐れんで、南泉寺内に息心庵を建立した。
●7代景逵の娘の於縁は、江戸城本丸大奥に奉公し老女岩岡局となる。9代景祥は岩岡局の甥で、御留守居となり老中の配下に属し、大奥の取り締まりや通行手形管理の職に就き、将軍不在時には江戸城を守る役割を担った。
●徳川家定が13代将軍に就任後、岩岡局(7代景逵の娘の於縁)が家定付大奥御年寄になると、甥の11代安芸守景高は大御番頭に就任した。 天保14年(1843年)、この遠山景高が浦賀奉行に就任、浦賀警備。アメリカ東インド艦隊来訪、通商を求める。
●安政7年(1860年)3月7日、江戸城本丸大奥御年寄の岩岡局が亡くなり、日暮里谷中臨済宗妙心寺派南泉寺に埋葬されると、旗本明知遠山氏菩提寺「龍護寺(美濃国遠山荘明智)」には、桔梗紋の刻まれた岩岡局の観音像と丸に二引両紋が刻まれた凉光院(寛保 2 年(1742 年)7月13日没)の観音像が建立された。
●慶応3年(1867年)10月14日、15代将軍徳川慶喜が政権を天皇に返上する大政奉還を行った。およそ260年間、家康から15代続いた徳川政権が幕を閉じると、旗本明知遠山氏も徳川宗家直属の家臣として初代利景から12代景福まで仕えた大身旗本としての役職を終えた。