
●宝治元年(1247年)鎌倉幕府の有力御家人の加藤景廉(遠山荘園の地頭)の息子遠山景重(明智遠山氏始祖)が明智に居城を構えた。
●天正2年(1574年)武田勝頼と織田信長が明知城を攻防、武田勝頼により明知城は落城、遠山一族は離散。
●天正3年(1575年)遠山一行明知城を奪還。
●天正11年(1583年)兼山城主森長可東濃侵攻、遠山利景明知城を脱出、徳川家康に走る。
●天正14年(1586年)家康、秀吉の小牧、長久手の戦いの結果、遠山利景は森氏より明知城奪還。
●慶長10年(1605)家康、将軍職を秀忠に譲り、駿府城へ大御所として院政、利景はその有力側近の一人として家康に勤仕、明知城に館を作り駿府から帰省、当時の豪華な生活は発掘された美濃焼などより推察できる。
●寛永16年(1639年)遠山長景、明智へ帰省本拠はご陣屋へ。明知城廃城は江戸幕府の一国一城令に従い遠山利景が初代旗本に就任時。
【城の特徴】
主要な曲輪の周囲に設けられた「畝状空堀群」と呼ばれる遺構である。
これは斜面に平行するように設けられた堀(横堀)と、斜面に直行するように設けられた複数の堀(竪堀)を組み合わせたものであり、主郭を取り囲むように放射線状に配置されている。

